福永 博臣:Life Quest Alliance 代表

Profile

私のコーチング・コンサルタントへの情熱は、「他人に貢献したい」という想いから来ています。
楽天が掲げていた「中小企業をエンパワメントする」というミッションがとても好きでした。
経営困難に陥った中小企業が業績を回復する姿を見るたびに、心が震えたものです。

様々な性格診断が、私を「サポーター」タイプだと示しますが、なぜ私が他人に貢献することに情熱を感じるようになったのか、長らく不明なままでした。
しかし、自己探求を深める中で、私の母の存在があることがわかりました。

私は鹿児島生まれの千葉育ちです。
天然記念物が生息していたり、田んぼから天然ガスが湧き出たりするような、自然に豊かな環境で育ちました。

母子家庭で、生活は豊かとまでは言えませんでしたが、貧しさを感じることもありませんでした。
しかし、親戚からの経済的援助を受けていたことを大人になってから知り、母は私に貧しさを感じさせないよう、一生懸命に育ててくれていたのだと思いました。

母は仕事が忙しい中でも家事全般を一人で担ってくれました。
体調が悪い日でも、私の食事作りを欠かしたことはありませんでした。
母は人に対する気配りも深かったことから、多くの人々に信頼され、仕事でも頼られる存在でした。
それは、単なる「貢献」を超え、「献身」と言っても過言ではないと感じています。

私が他人に貢献したいと感じるのは、何か特別な出来事や人生の転機があったわけではありませんでした。
ただ、献身的に私を育ててくれた母の影響であり、子供時代に最も身近にあった価値観が「他者への貢献」だったからでした。

社会人として私が受け取った多くの信頼は、学歴や顕著な実績があったからではありません。
ただ、困っている人を助け、一緒に問題を解決することを繰り返す中で築かれた信頼だと感じています。

コーチングは、相手の潜在的可能性を信じることから始まります。
書籍『7つの習慣』にもあるように、「解決策は全て、自分の影響の輪の中」に存在します。
私の役割は、クライアントと共にその「影響の輪」を育て、クライアント自らの力で課題を乗り越える力を育むことに貢献することです。
この過程に、私の知識や経験を活かしてクライアントの視野を広げるコンサルティングの要素を取り入れることで、クライアントの案でも、私の案でもない、より良い「第3の案」を共に発見する喜びを感じています。

このコーチングとコンサルティングを通じての貢献は、献身的に私を育ててくれた母への恩返しでもあり、その恩を周囲にも分け与える恩送りだと考えています。

母から受けた恩をあなたにも送れたら最幸に思います。

米国NLP&Coaching研究所 認定NLPプロフェッショナルコーチ
同研究所 認定 Dynamic Spin Release トレーナー
NLPヘルスサティフィケーション(NLP大学院)修了
7つの習慣・実践会 認定ファシリテーター

Story

幼少期~学生時代

1976
鹿児島県で産声を上げる

生まれは鹿児島。鶴が舞い降りる土地として有名な出水市。
生誕後すぐに千葉へ移り、育ちは千葉県。

1979
外の階段上から飛び降りたときに頭から落ちて数針縫う

母親に膝枕をされタクシーで運ばれる様子を上から見ている臨死体験をする。

1984
小一の時に担任の先生から友達の物を盗んだ容疑をかけられる

違うと言っても信じてもらえず人間不信になる。
後にNLPで「疑われる人の痛みがわかるようになった」とリフレーミングされる。

1993
高級料亭で板前のアルバイトを始める

高校生になり、母の知り合いの高級料理店の板場にアルバイトで入り込む。
板前さんに囲まれ包丁の持ち方から魚のさばき方まで調理の基本を習う。
失敗すると板長から殴られるなど職人の世界を体験し、仕事に対する姿勢や厳しさを学ぶ。
最後は板長から包丁をもらうほどの信頼関係を築けた。

1996
貧乏から一転した大学生活

KOEIの「信長の野望」「三國志」から歴史に興味を持つ。
高校2年の頃、歴史家の叔父に邪馬台国に関する教えを受け東洋史学を学ぶきっかけになる。
大学1,2年生の頃は、外では1日100円使えるかどうかの貧乏生活で昼食もままならず空腹と戦いながら授業を受ける。
2年生の後半から塾講のバイトを始めたことで生活が楽になった経験から、貧しくてもきっかけやチャンスを掴めば人生は好転すると考えるようになる。

1997
千葉県内大手の学習塾で中学生に社会を教え始める

最下位クラスの社会の成績をカリキュラムを無視した独自の教え方で、全20校中同レベルのクラスでは1位に引き上げる。
相手に合わせたやり方が大切だと思った一方で、本部からどうやって成績を上げたのか聞かれて困った。

就職~結婚

2000
未知のIT系開発企業へ就職

プログラムの「プ」の字も知らないままIT系の開発会社へ就職し、一からプログラムを学ぶ。
塾講の高校受験に追われ、入社前課題などをまともにやらなかったことから問題児認定をされていた。

初の現場配属も即座に干される

某企業の最先端Web技術研究所で、周りには博士号しかいない現場に放り込まれる。
数日で「こんなのJavaじゃないね」と仕事できないやつ認定を受け、とりあえず勉強しろと海外の技術書を山のように積まれる。
結局1年目はまったく仕事をもらえず読書の日々だったが、この時期に得た知識がその後の技術者人生の基盤になったことは間違いない。

2001
1年目の振り返りで会社をディスる

仕事がもらえず悶々としていたこともあり、1年目の成果発表会で役員陣を前にして「この会社は何がしたいのか分からない」と発言し、問題児認定をされる。
同期と、なぜか人事からは称賛された。

2003
愛する妻と結婚

上司に呼び出されたカラオケにいた先輩と付き合うことになり、そのまま結婚。
住んでいた会社の寮が廃止になるので住む場所を探している中、良さげな新築マンションを見つけ、年収300万円しかないのに無謀にも購入。
宵越しの金は持たない主義で頭金が払えず妻に出してもらう。

転職~リーダー時代

2003
楽天へ転職し忙殺される日々の始まり

3次受けのプロジェクトに入り、暇でしょうがなかったので転職活動をしてみた。
何社か申し込んだ直後、マンションの融資がおりなくなるから駄目と販売会社に言われ一時断念。
楽天だけが可能になったら連絡してと言ってくれ、融資がおりた後に面接を受ける。
六本木ヒルズへと移転したばかりの楽天株式会社(現楽天グループ株式会社)へ11月に転職しヒルズ族の仲間入りを果たす。

初の営業経験でGet Things Doneを体感する

楽天の方針で開発採用でも最低1ヶ月は営業研修として楽天市場への出店を促す電話営業を行う。
営業の「え」の字も知らないままアタックリストを渡され、日に100件以上の電話をかける日々。
野球参入前でまだ全国区ではない楽天を名乗るとガチャ切りされ怒鳴られ心が折れる。
後に副社長にまでなられる方にメンターをしていただき、無事目標を達成して解放。
毎月成績がリセットされる営業の厳しさを体験できたのは良い機会だった。

2004
お買いものかごリプレースに参加し帰れない日々が始まる

当時データベース上で動いていたお買いものかごシステムをJava化するプロジェクトに参加。
4ヶ月ほどで始めて触るAPIなるものを構築せねばならず終電間際でもタスクがどんどん振ってくる。
家に帰れない日々が始まり、名実ともにヒルズ族になる。

店舗系システムの全面リプレースでやっぱり帰れない日々

これまたデータベース上で動いていた店舗系システムをJavaで全面リニューアル。
お買いものかごがリリースされる4月頃に開発役員から「蝉の鳴く頃までに」と言われ一番遅く鳴く蝉を調べる。
蝉はもう鳴いていないなと思う11月に何とかリリース。
大量のファイルデータを効率よく分散配置する技術で特許取得。

2005
ご褒美昇進でチームリーダーに

ご褒美昇進したのは店舗系システムのリプレースを率いたチームリーダーたち。
それぞれがマネージャとして部署を持ち離れて行ったため、お鉢が回ってきただけ。
それまで2名くらいのパートナースタッフと仕事をしていただけなのに、「明日からリーダーね」と10名ほど渡され、組織運営に苦慮する日々が始まる。

2006
愛犬レイラを迎える

大阪のブリーダーからウェルシュ・コーギー・ペンブローグを迎える。
かわいい以外の何物でもない。

楽天オークションの開発チームリーダー兼務で更に。。

楽天オークション(ラクマにリプレース済み)の開発が始まり、出品関連システムの開発リーダーを市場開発と兼任。
この頃徹夜は減っていたが朝の8時から夜0時まで働く日々がこの後1年位続く。
1週間先まで会議予定が埋まっていたため、部下は1週間後のレビュー予定を入れ、それに間に合うように仕事をしたためかプロジェクトの進捗は良かった。(間に合わないと次1週間後になり大幅遅延を怒られるので)
夢に日付をってこういうことかと思う。(違うか)

経験した中で最大規模のシステム障害が発生

楽天市場の基幹データベースの半分がオペミスでフォーマットされ、楽天市場の店舗半分が3日間止まるシステム障害が発生。
24時間作業し3時間寝るのを繰り返し、アプリログからユーザの行動を再現し受注トランザクションを再作成していく。(ログ大事)
複雑な状況も因数分解して1つ1つをシンプルに対応することで、どんな困難な状況や問題でも解決できることを学ぶ。

2008
最愛の息子が生まれる

かわいい以外の何物でもない。
元気な子を無事に産んでくれた妻に感謝。

マネージャ~部長時代

2008
マネージャになったが、なり切れずに苦悩する日々が始まる

店舗系システム開発部隊のマネージャに昇進。
これまでマネージャに指示や方針を仰いでいたのに、「お前はどうしたいんだ?」と問われるようになり、チームリーダーとは違う役割に戸惑う。

2009
チームリーダーからマネージャに脱皮する転機

ほぼすべてのシステムを一から作ってきたため、自分がサービス仕様もシステム仕様もシステム運用も誰よりも知っている状況の中、これまでは
「ついて来られないやつは辞めれば良い」
「やるのか辞めるのか選べ」
と強権的なリーダーシップだった。
ある時、部下が1週間くらい検討した内容に別の案で答えたら「そうですよね!」と自分の案を即座に引っ込めたことに違和感を覚える。
この組織は自分がいないと駄目?皆各々の考えで仕事をしていない。とリスクを感じ、自分の限界を組織の限界にしない組織づくりを模索し始める。

2010
魔のEnglish-nizationがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!

ある朝会で「社内公用語を英語にします」と発表があり、A Hard Days Nightな日々が始まる。
高校の時の英語の偏差値は35くらい、TOEIC初回スコアーは425で会社を辞めようと思った。
社長との会議も英語になり困り果てたが、うまく話せない社員の英語を社長が怒らず我慢強く聞いてくれたので何とか乗り切った。
会社の大きな変革にはトップ自らの覚悟と忍耐が必要と学んだ。

2011
お買いものかごシステムの再リプレースに際して社内スピンアウト

リリースがうまくいかないことに部下のやる気が無くなり、皆異動希望を出す。
「なら、もういい」と、パートナースタッフ2名を引き連れ部署を新設し、システム開発と運用を巻き取ってプレイングマネージャに戻りリリースまで持っていく。
責任感の強さは評価されたが、マネージャとして部下と向き合えず組織を捨てた点は大いに反省。

2012
部下と一緒に成長した楽天スーパーセールが始まる

セール開始後数秒でお買いものかごを落とされる日々の始まり。
開始後の10分間ほどは日本全体のトラフィックの10%が楽天に流入したらしい。
1年半かけてチューニングと負荷対策を施し、無傷で乗り切った時に店舗さんからいただいた言葉は今でも忘れられない。
困難な時期を試行錯誤で乗り越えた部下の成長ぶりは目を見張るものがあり、それぞれが後にポジションを上げていった。

何を伝えても「Good job」と言われ、コミュニケーションに苦慮したアメリカ人上司

海外版楽天市場の開発が始まり、API開発部隊のマネージャを兼任する。
引き続き英語ができないまま上司がアメリカ人になり、コミュニケーションに苦慮する日々が始まる。
1時間かけて書いたレポートを数分で大量のコメントを付けて返されたときは会社を辞めようと思った。
海外籍の部下も同僚も大量に増え、言語だけでなく文化の違いによる意思疎通の不備に悩まされる。

忙しい日々に疑問を感じ始めた息子の言葉

日本と海外の両方の市場開発を担当しているので、朝は息子が起きる前に、夜は息子が寝たあとに帰る日々が続く。
日曜日の夜にまだ幼い息子に「パパまた来週」と週末にしかいない人認定され、このままでいいのか?と思い始める。
が、その後しばらくは忙しい日々は変わらずな生活を続ける。

2014
TOEIC800点クリアーするも抜け出せない英語苦

TOEICスコア800取らないと降給になる期限ギリギリでなんとかクリア。
満を持して挑んだGlobal Manager Programは、空気を読まない外国人に「こいつ全く話せないから話を振ってもムダ」と空気を読まれる。
データベースが半分吹っ飛んでも動じなかったのに、時間だけが解決してくれる(1週間経てば終わる)状況に会社を辞めようと思った。

2015
ダイエットに成功(?)した課長昇進

楽天市場開発の課長に就任。
お昼を食べる間も与えてくれない会議攻めにあい、運動皆無だったけど1年でウエスト-6cmを達成。

(心配してくれたアシスタントからの差し入れ)

チョコパイの差し入れ
2016
出世のピーク、部長昇進

楽天市場店舗向けシステム開発部の部長に就任し、忙しさ増し増し。
組織規模も150名ほどになり、億単位の年間予算を取り扱い始める。
事業側の役員との会議も日常になり、経営層の意思決定の現場を間近で見るようになる。
カンファレンスで600名程の店舗さんを前にプレゼンをするなど貴重な経験もさせてもらった。

2018
「中小企業をエンパワメントする」の楽天のミッションが好きだったことの再認識

競合との熾烈な争いの中で如何にユーザを集めるかが課題に。
開発予算を得るためにもより一層利益を上げなければならいことは理解しつつも、店舗よりユーザに偏った経営判断に心が離れ始める。
そんな中、店舗の声を聞きに全国各地を回るタウンミーティングが開始され全国行脚を行う。
日中はサンドバックになりながら店舗の不満を聞く中、夜に地方の美味しいものを食べるのが唯一の楽しみになる。

7つの習慣との出会い、そして一時代の終わり

2018
人生を変えてくれた7つの習慣・実践会

日本発世界初の個人向け7つの習慣セミナーのファシリテータ認定を受ける。
実践に重きを置くワークショップなので、まずは自ら実践すべしと取り組み始める。
第3の習慣「最優先事項を優先する」を実践したところ、1ヶ月ほどで週末をかけても終わらなかった仕事が定時内で片付くようになる。
家に帰って子供におやすみと言って抱きしめてあげられること、仕事以外に使える時間が増え、後にNLPやコーチングなどを学ぶ機会になったことで、まさに人生を変えてくれたワークショップ。
もっと多くの人に7つの習慣・実践会を提供したいと思い始める。

2019
空いた時間で心理学NLPを学び、変化が顕著になり始める

当時の上司から「お前のコミュニケーション、何とかしろ」と言われ、雑談の本などを読んでみるも違うと思い、ネットで検索していたところNLPに出会う。
参加したコースでは、初日は「話しかけづらい」という印象だったそうだが、最終日には何かと頼られるような存在に変わる。
仕事でも全く怒らなくなったと言われるように。

部下には向き合えなかった後悔は長く続く

優秀だがチームパフォーマンスを向上させるために敢えて異動を決めた部下と最後向き合えず、わだかまりが残ったままになる。
人間関係で主体的になれなかったことは、長く後悔することになると学んだ。

徐々に後退しつつ、組織づくりは一定の集大成へ向かう

店舗よりユーザを優先する経営層についていけず、会議に参加するだけでストレスだったため、上司に相談して課長へ戻してもらう。
現場の指揮官に戻り、この時期から組織を整え、立て直し、後任に引き継ぐ組織づくりマネジメントを繰り返すようになる。

2020
人をサポートするのにうってつけのコーチ業との出会い

NLPプロフェッショナルコーチのコースを受講し認定をもらう。
このコースは今でもアシスタントとしてお手伝いをしている程のめり込んでいる。
楽天は副業NGなので、知り合いに無料でコーチングをし始める。
副業開始時期を半年早められた会社員や、売上1億円を達成した経営者など実績を積んでいく。
自分のタイプはサポーターなので、コーチは自分に合っていると感じた。

自分にとっては悪いことばかりじゃなかった自粛期間

COVID-19が流行り始め、在宅がメインになる。
片道1時間半の通勤時間が無くなり、忙しくても家族と過ごす時間が増える。
2017年から愛犬レイラが変性性脊髄症にかかり身体が動かせなくなっていたので看病するのにちょうど良かった。

退職日は2年後になった辞職願

会社の枠にとらわれず、もっと多くの人をサポートしたいと思い始める。
「この会社で何をやりたいのか?」とある役員に問われた時に何も思い浮かばず、そろそろ潮時かと思う。
辞めると上司に伝えたところ、立て直してほしい部署があると慰留され、サポートできることがあるならと退職を延期する。

2022
愛犬レイラ逝く

変性性骨髄症は発症から3年ほどの余命と言われていたが5年生きてくれた。
呼吸困難で苦しむので安楽死の覚悟をと言われていたが、病気が原因なのか老衰なのかわからないくらい穏やかに最期を迎え、辛い決断をさせないでくれた親思いの良い子だった。

7,000日働いた楽天を退職

最後に請われた組織の立て直しと後任への引き継ぎが終わり、あと1年で20年なのにと言われつつ19年間働いた楽天を後にする。
ある送別会で、楽天に残っていたらどの部署で働きたいか?と問われたが、やっぱり市場開発かな。
辛いし厳しいけれど、それだけに一番成長を感じられる場所でもある。
今回楽天を去ることになったけれど、楽天は好きだし、ここまで成長させてもらえたことに感謝している。

起業

2023
Life Quest Alliance 創業

○千万の年収を捨ててでもやりたかったコーチング、これまでの経験を活かせるコンサルティングをベースに会社を設立。
実現したい未来に向かって歩みだす。
さて、この先や如何に。